カール・シュレイダー “Hijack”(2024)

カール・シュレイダー(Karl Schroeder)の短編。訳題を付けるなら「乗っ取り」か。なお、この記事ではネタバレに全く配慮していないので注意。

あらすじ

未来の人類は、水星を解体して得られた材料を用いて、太陽光をエネルギー源とする超巨大量子コンピュータ〈パラダイス〉を組み上げた。このコンピュータは当初、意識をアップロードすることで、死後も人々が仮想の来世で永遠に生きられるようにするための仮想空間〈天国〉を実現するための計算システムであった。その〈パラダイス〉では新プロジェクトが進められていたのだが、その記念すべき時が来た。

〈パラダイス〉の新プロジェクトとは、無数のソーラーセイル機にテラフォーミング用の「生命の種」を搭載し、他の恒星系へ向けて送り出すというものだった。それには太陽近傍に浮かぶスタタイトが使われていた。スタタイトとは、太陽の引力と光圧の均衡点に留まるよう設計された人工衛星で、通常の軌道を周回せずに安定した位置を維持できる。いまスタタイトから幅数キロメートルのソーラーセイル機がいくつも放出され、さらにその帆に向けてレーザーが発射されていく。これによりセイル機は光速の20%まで加速されて太陽系を脱出するのだ。

この新プロジェクトに長年尽力してきたサイモン・オコロ(Simon Okoro)は、友人のマーティン(Martin)と仮想空間〈天国〉の中で再会する。このマーティンは〈天国〉内の仮想意識であり、現実では20年前に亡くなっている。サイモンはここまでこぎつけたことを喜び、マーティンと語らう。人類は結局、他の生命が存在する惑星を見つけられなかった。そしてある転機により、偽りの天国を作るよりも銀河全体に生命を広げることを主な目標に変えたのだ。そして〈パラダイス〉の計算能力は、幾多の異星での何十億年もの進化のシミュレーション、適合する何百万もの新種のDNAと種子の設計、生態系や生物圏の設計といったことに振り向けられた。

転機というのは、ある科学的発見である。仮想的に再現された意識には「主観的経験」が存在しないことが証明されたのだ。この成果は、意識が単に脳から抽象化されるものではなく、肉体や環境との相互作用によって成り立つと結論づけていた(これを認知科学でエナクティビズムと呼ぶ)。このため、すでにアップロードされていた者は「哲学的ゾンビ*1、すなわち自己認識がなく意識を持たない存在と見なされることになってしまった。アップロード者のマーティンによればこの方針転換は「プロジェクトの乗っ取り」だ。「お前たちは俺たちを見捨てた」と彼はサイモンに言う。

しかし、サイモンとマーティンの会話の中で、〈パラダイス〉に異変が起きていることが明らかになる。放熱器(ラジエータ)として機能する鉄の雲が異常な量の熱を放出しているのだ。マーティンの示唆により、太陽系外から来た未知の存在が〈パラダイス〉の放熱器を「乗っ取って」利用し、別のシステムを構築している可能性が浮上する。放熱器の中では、廃熱を利用した散逸構造によって稼働する機械式コンピュータがうごめていた。

マーティンによれば、〈パラダイス〉がテラフォーミング用に送り出した「種」も、実は未知の存在によって都合の良いように改変されていた。放熱器からスタタイトにウイルスのようなものが送り込まれ、「種」を改変する指令が上書きされたのだ。セイル機の発射が終了すると、現実世界ではなぜか次々とスタタイトが太陽へ墜落していく。人類による「種」の追跡を防ぐためだろうと語るマーティン。この存在は人類を相手にしておらず、対話する気もないようだった。マーティンの仮想意識が辛辣な言葉を吐く。「お前らは『あいつら』にとって現実じゃないんだろうよ、サイモン。それってどんな気分だ?」サイモンは「見捨てられるってどんな気分だ?」というマーティンの文句を耳に響かせながら現実世界に戻るのだった。

メモ

本作はIEEE(米国電気電子学会)の雑誌に掲載され、Web上でもイラスト付きで読める。今のところ、これがシュレイダーの商業媒体に掲載された最新作である(それ以外にも本人は購読型ニュースレターサービスのSubstackで作品を公開しているが)。

まずは、短編ながらいくつものガジェットや概念が次々と繰り出されるのが楽しかった(そのためか編集部の意向で脚注がたくさん付けられている)。そして、「生きている人類とアップロード者」の対比が、最後に「太陽系外存在と人類の対比」へ移り変わるという物語構造上のひねりもきちんとあって、結果としてオチは穏やかではないが短編の面白さは得られる作品となっている。

作中の〈パラダイス〉は非常に優れたシミュレータなので、何かを行う機械を考案するよう頼めば数秒でその設計を「進化」させることができたという話から、「どんなシステムをも瞬時に進歩させられる段階を超えて、いかなる文明もさらに技術的な進歩をすることは不可能である」という技術的限界点(テクノロジカル・マキシマム)と呼ばれる概念がちらっと出てきて興味深かった。

現時点でのシュレイダーの邦訳作は、長編なら〈気球世界ヴァーガ〉シリーズの第1作『太陽の中の太陽』Sun of Suns だけ、短編は〈ロックステップ〉シリーズの「黄金の人工太陽」"Golden Ring"(『黄金の人工太陽 巨大宇宙SF傑作選』Cosmic Powers: the Saga Anthology of Far-Away Galaxies 所収)だけである。なお〈気球世界ヴァーガ〉シリーズの長編はこのあとも4作が出ているのだが、音沙汰がないのでおそらく訳されないままだろう。大気のある無重力世界を構築していて、その設定はやや強引な感はあるものの、内容はきちんと面白かった作品なのだが。個人的に気になっている長編 Lockstep(2014)も訳されなさそう。

ちなみに〈ヴァーガ〉の気球世界についての設定は以下に詳しく書かれている。

参考

*1:作中では「zimboes(ジンボ)」と表現されており、これは「自己をモニタリングすることで、より高次の再帰的な情報状態をもっているゾンビ」を指す造語で、ダニエル・デネットが使用した。ジンボは、自分が意識を持っていると考え、クオリアを持っていると考え、痛みを感じていると考える。