水中呼吸を可能にする人工のエラ「Triton」は実現できるのか?

こういうニュースが流れているのを知った。

左右に飛び出した棒状の部分には、水分子より小さな穴の空いた繊維が大量に詰められており、水から酸素を取り出す。ただし、必要な量の酸素をリアルタイムに得ることは難しいので、水中から取り出した酸素をコンプレッサで圧縮してタンクに貯め、これを人間が呼吸に使う。

コンプレッサはバッテリの電力で動くため、水中での活動はバッテリ駆動時間の45分に制限される。また、利用可能な最大深度は15フィート(約4.6m)

水中を魚のように泳げる人工エラ「Triton」--“海のトリトン”になれるかも - CNET Japan

……というものらしく、発案者にしてデザイナーの Jeabyun Yeon 氏のサイトは以下。

フィクションでは『007 サンダーボール作戦』『007 ダイ・アナザー・デイ』『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』に似たようなデバイスが出てきており、そのへんが発想の元ネタになっているらしい。個人的には『ドラえもん』のひみつ道具「エラ・チューブ」を思い出す。

この「Triton」の案は2年ほど前からあちこちで紹介されており、確かに実現すれば素晴らしいデバイスだろう。ただし、本当に実現できればの話である。

物理的な問題

やはり、物理的な問題を指摘している人がいた。以下はデバイスの実現可能性について指摘した2014年の記事。

この記事では物理学と生理学的な理由からありえないとしており、以下のような説明をしている。

まず、人間が呼吸する空気の量はだいたい1回で 500mL。そのうち酸素は吸気の21%、呼気の16%を占め、人はこの差5%ぶんを消費している。500mL の 5% は 25mL(0.025L)である。標準状態で気体 1mol は 22.4L となるため、

\displaystyle \frac{22.4}{1}=\frac{0.025}{x}

より、

\displaystyle x=0.00111

つまり人間はひと呼吸につき、0.00111mol の気体酸素を消費していることになる。酸素分子はO2なのでその分子量は原子量16の2倍で32となり、質量[g]は「物質量(mol)×モル質量(≒分子量)」なので、

\displaystyle 0.00111\times32=0.03552

1回の呼吸には 35.52 mg の酸素を必要とするわけだ。そして、海洋の表層にある水の中には酸素が 6 mg/L 程度含まれているらしいが、1回の呼吸ぶんの酸素 35.52 mg を得るには何Lの水が必要かを考えると、

\displaystyle \frac{35.52}{6}=5.92

となり、 呼吸のたびに 5.92L の水から抽出しなければならない。

平均的な人間は、安静時に毎分約15回呼吸している。もし同レベルの酸素を水から供給するとなると、

\displaystyle 5.92\times15=88.8

毎分約 90L を処理する必要があり、現実には難しいだろう。デバイス内へ水を強制的に通すポンプがない場合、装着者の泳ぎで水の流れを生み出すことになる。毎分15回の呼吸に必要な分を供給するには、とても速く泳がなければならない。そして泳ぐとなると呼吸量が増大するので、さらに水の処理量が多くなってしまう。急流河川で流れに逆らえばいけるのでは……というアイデアも見かけたが、そもそも流れに逆らって泳ぐこと自体が呼吸量を増大させる行為なので、あまり意味がなさそうである。

「Triton」のコンセプト画を見ると、酸素を圧縮するための小型コンプレッサはあっても、ポンプという単語は見当たらない。CNETの記事には「必要な量の酸素をリアルタイムに得ることは難しいので、水中から取り出した酸素をコンプレッサで圧縮してタンクに貯め」とあるが、ということは使う前にあらかじめ酸素を貯めておかないといけないのだろうか。よくわからない。

酸素中毒の問題

これとは別に、酸素中毒の問題がある。ある程度の高分圧酸素を吸い続けると身体に異常が出て、最悪死ぬこともある。だからダイビングでは酸素中毒を防ぐため、呼吸ガス中の酸素分圧は通常1.4気圧以下に保つことになっている。水中では -1m で0.1気圧増えるので、この基準で純粋酸素のみだと水深 4m までとなる(水深4mで呼吸するには1.4気圧のガスを肺に満たす必要がある)。「Triton」の最大深度4.6mで制限45分間というのは、酸素中毒になる危険を伴いそうだ。

なお、一般的なスクーバダイビングでタンクに充填されているのは普通の空気である(だから「酸素ボンベ」は間違い)。

これまでの研究など

ちなみに、人工的な鰓についてきちんと研究している人々はいる。もちろん実用化は遠いが。

小型潜水具

仕組みは違うが小型潜水具としては、過去にこういう装置が存在していた。

その他にも当時は小型の簡易潜水具が色々と出ていたらしい。

最近ではこんなのもある。CO2を吸着してガス交換する仕組みだが、やはりそれなりの大きさにはなってしまう。

こちらは水中の溶存酸素を利用すると謳って開発中らしいが、どの程度有望なのか不明。潜水具よりも潜水艇への搭載からか?

人工鰓が出てくる海洋SF

ついでに、人工鰓肺や鰓を持つ人間(水棲人類)が出てくる海洋SFを並べてみよう。漫画なら木城ゆきと「怪洋星」(『飛人 木城ゆきと初期作品集』所収)、都留泰作『ナチュン』、厚子康洋「DEEP DRY ディープ・ドライ」など。映画なら『ウォーターワールド』。小説ではアレステア・レナルズ「エウロパのスパイ」(『火星の長城』所収)や、他にもたくさんあるはずだがパッと出てこない。

SFではないが以下の本では「もし人間にエラがあったらどうなる?」という疑問に答えている。

(追記)内山安二『できるできないのひみつ』(学研)にて、水圧と水中呼吸の話が載っているらしい。

(追記)SF作家のハル・クレメントが、1977年にSF作家志望者へ向けた科学エッセイの連載Science for Fictionの第2回(Unearth, Spring 1977)で、遺伝子改変によって海棲人をデザインするならどうなるかという話を書いていて、これが面白かったので紹介しておく。

最近の検証記事(2016-03-27追記)

クラウドファンディング成立間近ということから話題となっているようで、英語圏でも「詐欺ではないか?」と怪しさを指摘する記事が出ていた(どちらも3月25日付)。2番目の記事には「Triton」開発元に電子メールで問い合わせたところ、返事がなかったとある。

また、掲示板などでも話題になっていた。以下は3月22日に立った検証スレッド。

日本のスラドでも23日にスレッドが立っている。

騒動の結果(2016-04-07追記)

結局、クラウドファンディング成立前に全額返金となった模様。しかし、人工鰓(膜)システムに液体酸素ボンベを連携する方式にして開発継続するとのことで、ふたたび出資金を募るらしい。液体酸素ボンベは詰め替え方式も開発したいとのこと。だが相変わらず呼吸ガスが純酸素なら前述した酸素中毒の危険性は残ってしまうのだが、その点については何も書かれていない。また、考案者のデザイナーはサイト上で「バッテリーを既存のものより30倍小さくする必要があり、次世代技術で……」云々と書いていたのだが、これについてもどうするのか謎である。

その他

これとはまったく違う話だが、以前「スクーバ・タンクを背負わずに、酸素注射を打ってダイビング」というネタが流布したのを思い出す。どちらも夢だけが先行しすぎである。

Amphibio(2018-07-19追記)

温暖化による海面上昇で水没した未来世界を考え、水中で呼吸可能なエラとして機能する水陸両用服のコンセプトを、デザイナーの亀井潤氏が2018年に発表した。

氏はもともと東北大学大学院で材料工学・バイオミメティクスの研究をしており、現在はロイヤル・カレッジ・オブ・アートに所属している。

プレスパッケージにあった説明文より、メカニズム部分を引用しておく。

多孔質かつ撥水性の材料でできており、水中に溶け込んだ酸素を取り込み、蓄積した二酸化炭素を水中に逃がすことができる。このエラのメカニズムは水に棲息する水中昆虫の呼吸メカニズムからヒントを得て作られた。この水中昆虫は撥水性の毛で覆われているため、水中でも薄い気泡をその表面に保つことができる。さらにこの薄い気泡は、水中から酸素を取り出すエラのような機能を果たしている。昆虫が呼吸をすると、気泡の中の酸素の分圧が水中の酸素の分圧よりも低くなるため、水中から酸素が気泡に移動していく。同様な原理で、呼吸によって蓄積した二酸化炭素は逆に水中に移動していく。

この方法では、水中に溶けている酸素を効率的に取り込むため、広大な表面積が必要となる。そのため、亀井は表面積を最大化できる形状をコンピュターで算出し、新しく開発した材料を3Dプリントすることでエラを作製した。近い将来には、人の呼吸によって酸素が消費されても、酸素濃度レベルを一定に保つ技術につながると亀井は期待している。

そして実際に機能するエラのプロトタイプを作り、特許も申請したらしいが、現時点では人間の呼吸を維持できるほど十分な酸素を生成するまでには至っていない。なお Facebook についたコメントに対する返信では、人間の場合だと理論上およそ40-80平方メートルの表面積を必要とするであろうことに言及している(人間の肺胞表面積も成人で約70平方メートル)。

また、将来展望として「様々な技術を組み合わすことで、酸素ボンベを必要としない、または最小限の酸素ボンベで水中に長時間滞在することが可能になる」だろうとも書いている。今回はあくまでコンセプトの提案であることに留意する必要があるだろう。