ムア・ラファティ『六つの航跡』無重力シーンにおける液体の挙動について

はじめに

ムア・ラファティ『六つの航跡』Six Wakes(茂木 健=訳, 東京創元社, 創元SF文庫, 上下巻)を読んだ。

六つの航跡〈上〉 (創元SF文庫)六つの航跡〈下〉 (創元SF文庫)

クローンの体で蘇った6人が最初に目にしたのは、自分たちの他殺体だった――2500人分の冷凍睡眠者と人格データを載せた恒星間移民船で、唯一目覚めていた乗組員6人が全員死亡。蘇った彼らは、地球出発後25年間の記憶を消されていた。しかも船のAIも改竄され、再復活は不可能に。全員が他人に明かせない秘密を抱える彼らは、自分自身さえも疑いつつ、真相を探り始めるが……ヒューゴー賞、ネビュラ賞候補の新鋭SF!

六つの航跡〈上〉 - ムア・ラファティ/茂木健 訳|東京創元社

あらすじは上に引用したとおりで、恒星間移民船ドルミーレ号の乗員であるマリアが、クローン再生されて合成培養〔アムネオ〕液(synth-amneo fluid)の中で目覚めるところから物語は始まる。この冒頭が無重力環境なのだが、その内容にとても困惑してしまった。変な描写が頻出しており、ページを繰りながら「???」とモヤモヤし続けるはめになったため、どうせなのでここに整理しておく。なお、本記事では作品の冒頭のみ紹介しており、ミステリーとして肝心のネタには何も触れていない。また、作中に出てくる「アムネオ液」という培養液の名称は羊水(amniotic fluid)から来ており、酸素が豊富に含まれていて液体呼吸できる設定らしい。

冒頭シーンの検証

やっとマリアの目が開いた。彼女が入っている培養タンクの前を、黒ずんだ液体が小さな球となって漂っており、彼女はその正体を考えてみようとしたが、クローン再生されたばかりの脳は、まだうまく働かなかった。とにかく、なにかたいへんなことが起きているらしい。

マリアが浸かっているアムネオ液は青色だし、タンクの外側には汚れがこびりついているのだが、このふたつを通して見ても、外で浮遊している液体は血に違いないと彼女は思った。血液が、こんなふうに宙を漂ってはいけない。これが第一の問題だった。もし本当に血がふわふわと浮かんでいるのであれば、それはこの船を回転させている重力発生装置に、異状が生じたことを意味していた。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻p. 14

ここまではよい。無重力だと液体はその表面張力によって球状にまとまるというのはよく知られた話なので、血液が0Gで丸くなって宙に浮いているという描写はまっとうである。以下はカレン・ナイバーグ宇宙飛行士(ISS第36次/第37次長期滞在クルー)のTwitterより。

培養タンクの内側には、緊急排出バルブが備えられているのだが、彼女はまだ一度も使ったことがなかった。(略)この事件のあと、もし再生したクローンがなんらかの理由でタンク内に閉じ込められても、自力で脱出するための非常用システムが備えられるようになった。

マリアがそのスイッチを押すと、大きな機械音とともにバルブが開いた。だが、アムネオ液はまったく排出されなかった。液体が流れ落ちるためには、重力が必要だ。そんなこと誰でも知っている。バルブは開いたものの、アムネオ液は子宮内の羊水のようにマリアを浸したまま、一向に出ていこうとしなかった。

(略)コンピュータ制御卓の近くに浮かんでいる乗員のひとりは女性で、濡れた長い髪が四方八方に広がり、全裸だった。あれも目覚めたクローンなのだろう。(略)

うしろを向くと、四基のタンクのなかに同僚たちが浮かんでいた。四人とも目を大きく見ひらき、非常用システムのスイッチを探していた。バルブの開放音が三つ響いたが、室内にはなんの変化もなかった。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻pp. 15-16

普段は疑似重力の環境で運用されるとはいえ、無重力になり得る環境で液体を利用する機器であれば、スイッチを押すと陰圧で液体が吸われ、そのぶん別の口から空気が入ってくるというような排出機構が備わっていてもおかしくない。「緊急排出」というならそれくらい想定されていてもよさそうだが、まあこれはいささか細かすぎる指摘だとは思う。

さらに細かいことを言うと、確かに無重力であれば長い髪はお団子状にまとめないと下の画像のように四方八方へ広がってしまうが、濡れた髪ならそこまで大きくは広がらない。

Weightless hair

STS-98におけるマーシャ・アイビンス(Marsha Ivins)宇宙飛行士, NASA, Public domain, via Wikimedia Commons

以下のカレン・ナイバーグ宇宙飛行士による洗髪動画では、無重力空間で長髪を濡らすとどうなるかがよく分かる。

余談だが、長髪を後ろでひとつ結んだだけの場合は無重力だとその先が広がり、当然ポニーテールのようにはまとまらない。以下の動画はクルードラゴン宇宙船(Crew-1)のドッキング後にハッチの開通作業をするキャスリーン・ルビンズ宇宙飛行士(ISS第63/64次長期滞在クルー)。

さて、問題はこのあとの描写である。

マリアは、タンクのドアを開く別の非常用スイッチを押した。手順としては、液が完全に抜けてから押すべきなのだが、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。ドアが開くと同時に、彼女は大量のアムネオ液に包まれたままタンクから浮かびあがり、目の前にあった球状の血とゆっくり衝突した。二種の液体は表面張力によって反発しあい、体積で劣る血の球がどこかに飛ばされていった。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻pp. 16-17

ここでは、なぜかタンク内を押したり蹴ったりして力を加える描写がない。単に自動でドアが開いただけでは押し出す力が加わらないので、ドアに多少付着した液は外に散らばりはするだろうが、残るタンク内の液のほとんども、そしてその中に浸かった人も勝手には浮かび上がらないはずである。しかし、もし力をかけて外に出たのであれば、そんなにも大量の液体が体にまとわりつくのは不自然である。なお、このアムネオ液の量はタンク1人分で1500リットルほどだと後の段落で書かれていた。

さらにここでは「二種の液体は表面張力によって反発しあい」とあって困惑する。以下の動画にある嘔吐彗星内でおこなわれたデモンストレーションのように、普通は混ざるのではないだろうか。

血液は、赤血球が凝集する度合いによって粘度が変化するため非ニュートン流体として扱われ、主に血液中の約半分を占める赤血球のせいで弾性的性質を持っている。しかし、水に傷口を晒すとすぐ血が混ざることからも分かるが、液体の塊に反発するほどの性質はない。血液の粘度は条件によって異なるのだが、調べると 3.5 mPa·s(ミリパスカル秒)とか 5 mPa·s とか 7.65 mPa·s とかいう値が見つかった。水の粘度はだいたい 1 mPa·s なので血液は水よりやや高い程度となり、比較するとウスターソースや醤油と同程度である。

では、もしかしてアムネオ液の方がスライムのようにかなり粘度が高いのだろうか? しかし、それならば人間が内部で液体呼吸することも困難であろう。以下は無重力下の粘弾性流体の映像だが、これくらいアムネオ液の粘度が高ければ血液と混ざることはないだろう。だがこんなものを呼吸しようとしたら、いくら酸素が含まれていようが呼吸する労力が増大し、肺の隅々まで行き渡らずに二酸化炭素も蓄積されて、呼吸困難になって死んでしまうのではないだろうか。

無重力状態で液体の檻から出るにはどうすればいいか、マリアは考えてみた。ためしに両腕を振りまわしてみたが、小さな泡がいくつかちぎれ、巨大な液体の塊から飛び去るだけだった。マリアは多くの人生を送ってきたし、みじめな思いもずいぶんしたけれど、これは初めての体験だった。

作用・反作用の法則だと彼女は考え、酸素が豊富に含まれたアムネオ液を思いきり吸いこむと、くしゃみをする要領で肺のなかのものを一気に吹き出した。アムネオ液の粘度が高いため、無重力空間で同じことをしたときほどの推進力は得られなかったが、大きな液体の塊から脱出するには充分だった。背中から出た彼女は、深呼吸をしてみた。ところが、たちまち咳きこんで体内に残っていた液体をすべて吐き出し、その勢いでさらに後方に飛ばされ、コンピュータ・コンソールに後頭部をぶつけた。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻p. 17

「アムネオ液の粘度が高い」と書かれているが、どの程度かは不明だ。そしてくしゃみのように吐いた反作用で液体の塊から抜け出したり、深呼吸からの吐き出しで後方に飛ばされたりとあるが、くしゃみ・息を吐く・咳をするだけでそこまでの速度は出ないのである。プールの中に浸かりながら口に含んだ水を全力で吐いてもほとんど体が動かないことは、容易に想像できるだろう。ましてや水よりも粘度が高い液体中であれば、なおさら動かないだろう。

無重力空間で息を吹いて体を動かすというのは、以下の若田宇宙飛行士のデモンストレーション動画が参考になる。空気中でかなり頑張ってもこの程度なのだ。液体は空気(気体)よりも密度が大きいので、確かに吐けば空気よりも反作用の力は大きくなるが、押しのける液体も密度が大きいので抵抗が生じてしまう。では無重力で液体の塊に閉じ込められたらどうやって出ればよいかというと、平泳ぎのように両手でまわりの液をかけばよいのである。

そして、読みながら最も困惑した描写がこちら。

血とアムネオ液が漂う室内に、死んだ乗員が三名浮かんでいた。うち二名は体から赤黒い紐のような物を伸ばしていたのだが、それは大きな傷口から流れ出た血だった。四人めの乗員は女性で、端末装置の前の椅子に座り、シートベルトを締めたまま死んでいた。

(略)

すぐにマリアは、この船の副長であるウルフガングの無惨な死体に行く手を阻まれた。複数の傷口から流れ出た血が紐状に固まっており、その紐をちぎらないよう注意しながら、彼女は副長の死体をそっと脇に押しのけた。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻pp. 17-19

無重力下で傷口から流れ出た血は紐状になどならないし、また、そのように固まりはしない。ここでふたたび若田宇宙飛行士のデモンストレーション動画を見てほしいが、注射器で水鉄砲をしている映像がある。

この動画だと近距離にタオルがあるのでやや分かりにくいが、噴出した液体も結局は球状に分裂して散らばるのである(おそらくプラトー・レイリー不安定性という現象)。ましてや出た血液が紐状に長く伸びて散らばらないというのは、いくら傷つけられたとはいえ、ほぼありえないだろう。たとえ激しい動脈性出血でも拍動に合わせて噴出するので、綺麗な紐状にすらならない。そして血液が人体から出ても、数分間は凝固しないのだ。その間にいくつも散らばって、それぞれ球状にまとまるだけである。

しかし、この後は以下のように血液が紐状になっていない、まともな描写も出てくる。

「なぜこんなことになった?」ジョアンナはこう自問すると、壁の手すりをつかんで勢いをつけ、天井近くに浮かんでいる自分の死体に向かって飛んだ。

(略)

ジョアンナの喉は鋭利な刃物で突き通され、大量の血が塊となって首からぶら下がっていた。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻p. 21

クローン室から出てゆくまえに、マリアは今まであえて目をそらしてきた彼女自身の死体を確かめてみた。(略)死体は、端末のひとつの前に設置された椅子に腰かけ、シートベルトを締めてゆるやかに揺れていた。後頸部から血が大きな泡のように膨らんでおり、そこを刺されたことは歴然としていた。

ムア・ラファティ『六つの航跡』上巻p. 27

冒頭に球状になっている描写もあるため、著者は無重力下で液体が球状になる(表面張力でまとまる)という理解はしているようだ。あくまで推測だが、無重力下で血液が勢いよく噴き出したり、または血液を流しながら体が動いた場合は血が軌跡に沿って紐状になり、そしてそれがそのまま固まるのだ――と勘違いしているのではないだろうか。だが、そんなことにはならないのである。

おわりに

無重力シーンは基本的にこの冒頭だけなので、このあと回転による擬似重力が戻ってからの展開は、ページをめくるたび頻繁に困惑するようなことにはならない。上記のような描写に戸惑ったおかげで冒頭の十数ページを越えるのが大変で、全編に渡ってこの調子だったらどうしようと不安だったが、幸いにも杞憂に終わった。とはいえ宇宙船の構造や推進等、他にも気になる点はあるのだが、それらは措いておく。

おそらく話のツカミとして読者を引き込むショッキングなシーンで始めたいという意図のもと、さらに無重力にすれば舞台が宇宙船内であるということもスムーズに提示できるということで、このような冒頭になったと思われる。それ自体は創作技法として間違っていないのだが、あまりにも描写がおかしいため、シリアスで凄惨なシーンのはずがギャグシーンとして感じられるものになってしまっている。作品のアイデアはSFミステリとして面白いネタだと思うが、細部のリサーチが足りていないのが実にもったいない。もしもこれらの描写がすべて伏線だったのであれば脱帽していたが、読了した結果、そうではなかった。

現在はISSの宇宙飛行士らのおかげで、上で紹介した以外にも、0Gにおける水(液体)の挙動についての動画は以下のようにいくつも見ることができる。創作する際はぜひ参考資料として活用していただきたい。余談だが、その他に宇宙ではタンク内にある液体推進剤の挙動やその供給方法なども面白いトピックだと思う。

※一番下の動画は「無重力で水にバブを入れると」について語るスレ - ニコニコ大百科に日本語訳あり。

参考