アーデン・ベイカー “The Combat Pilot’s Dictionary”(2024)

オーストラリアの新人作家アーデン・ベイカー(Arden Baker)の短編。訳題を付けるなら「戦闘機乗りの辞書」か。なお、この記事ではネタバレに全く配慮していないので注意。

あらすじ

宇宙戦闘機パイロット向けの辞書形式、かつ二人称で綴られるという少し変わった作品だが、中身はラブストーリー。物語はこの世界の軍事用語それぞれに対応したエピソードや心情の断片で構成されており、語り手であるパイロットの回想を通して、戦場における過酷な日常、仲間たちの死、そして「あなた」との親密な関係が少しずつ明らかにされていく。

語り手は苛烈な宇宙戦争の中で「あなた」と出会う。「あなた」は新兵たちに飛び方を教える教官でありながら、語り手に対して徐々に心を開き、共に酒を飲み、任務をこなし、「レモラ」と呼ばれる宇宙戦闘機の操縦について語り合うようになる。戦場という極限状態の中で、共に出撃を重ね、ふたりは明確な言葉を交わさずとも深い絆を育んでいく。しかし宇宙戦争の最前線では、死は常に身近にあり、戦友たちは次々に姿を消していく。飛行名簿から名前が消されること、遺体安置所が満ちていくこと、出撃待機室の空席が増えることなど、死の影がまとわりつく日常。

そんな折、語り手は「あなた」に、医療技術者たちが囁いていたある事実を聞かされる。戦闘機の操縦に用いるDNI(直接神経接続)を長期間使用したパイロットは、その神経活動パターンが機器内に蓄積されており、それをもとにその人物の近似的なコピー人格を構築できるというのだ。

小惑星帯における巨大戦艦〈アレクサンドリア〉との戦闘後、被弾した「あなた」は放射線被曝により瀕死の状態に陥る。語り手は怒りを胸に〈アレクサンドリア〉との決戦に挑み、ダメージを負いつつも敵を打ち破る。しかし、「あなた」は息を引き取る。

語り手は軍の医療班と話した結果、戦闘機の操縦に用いるDNI(直接神経接続)で蓄積・保存された「あなた」の神経転写パターンをもとに、「あなた」を戦闘機として蘇らせる。新型戦闘機の姿となった「あなた」とともに語り手は再び宇宙へ戻るのであった。

メモ

2024年オーレアリス賞最優秀SF短編部門受賞作、ということで存在を知って読んでみた。この著者の商業デビュー作らしい。著者曰く「『GALACTICA/ギャラクティカ』を見まくった後で書いた」とのことで、戦闘描写は確かにあのドラマを彷彿とさせる。そのためか、宇宙のはずなのに航空戦っぽい描写になっているのはご愛嬌か。あと加速度を圧力で表現している箇所があって、比喩なのかもしれないが少し気になった。なお、語り手の性別は意図的に曖昧にされているが、これは「読者が自分のバックグラウンドに関係なく、この作品から何かを感じ取ってほしいから」だという。そのためか冒頭、読み方に少し迷ってしまった。

著者のブログでは物語の追補となる掌編が公開されている。作中の交戦に関する軍事報告書や戦闘後インタビュー記録の体裁をとったものだ。

ただ、そこに「カリプソ対地同期軌道における限定交戦」という一文があるのが気になる。むろんこれは土星の衛星カリプソのことだが、カリプソは不規則な形状の天体であり、その重力場は球対称になっていないので、安定的な対地同期軌道を形成することは難しいと思われる。まあ戦闘時だけの一時的・疑似的なものなのかもしれない(と考えればいいか)。

ところで、少し前に著者がイラスト付きの以下ポストを上げていた。ちなみに上記ブログ記事にあるイラストもこちらも誌面掲載のイラスト(Simon Walpole作)とは別物なので、著者の自作かも。

著者について

アーデン・ベイカーはオーストラリアのメルボルンで生まれ育った。中国での生活と仕事の後、現在は故郷に戻り、コンサルタントと語学教師として働いている。翻訳家としても活動。SFF執筆集団「Meridian Australis」の運営メンバーでもある。英訳されたものをすべて読んでいるほど村上春樹作品が好き。